Wednesday, 29 February 2012

人生の意義


この問いは、経済的に豊かな国でほど切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う[2]
人生において、このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。思春期、中年期および老年期である。思春期を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「中年期の危機Mid-life crisis)」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。 傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる。 神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である。
この問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしないとマックス・ウェーバーはしている。
この問いに対する回答は宗教哲学の中に見出すことができる。あるいはそれらを表現した文学や音楽などの芸術作品の内にも見出すことができる。


功利主義 

功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされており、彼は快と不快という二つの支配者の下にあることが人間の自然であると主張し、そして道徳的洞察から功利性の支配(Rule of Utility)という説を展開し、「善は何であれ最大多数の最大幸福である」とした。彼は生きる意味を「最大幸福の原理」として定義した。なお、ジェレミー・ベンサムの第一の支持者は彼の時代の著名な哲学者であるジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルである。ジョン・ステュアート・ミルは父の仕事の多くからの転写と要約を含むベンサムの原理によって教育された。

プラグマティズム 

プラグマティズム19世紀後半のアメリカで形成され、それ自体で(ほとんど)真理に関係して与件を供する環境との奮闘だけを仮定し、そして意味を持つ理論を派生させ、そしてその結果、功利と実用性もまた真理の要素でもあるとしている。さらに、プラグマティズムは役に立ち実用的なものだからといって何であれ常に真理であるというわけではないと主張しており、人間の善に最も貢献するものが長らく真である、としている。「実践において、理論的主張は実践的に検証可能であるべきであり、即ちあるものは予測およびテストが可能な主張であるべきであり、そしてつまるところ、人類の要求が人間の知的探求を指導すべき」と主張した。
プラグマティズムの哲学者は、実践的で有用な人生の理解は人生についての非実用的で抽象的な真理より重要である、と主張する。

ニヒリズム 

ニヒリズムは知識と真理の主張のあらゆる権威を否定し、価値は実在しないとし、それにおいては価値は主観的であるというよりも、むしろ無根拠である、とする思想である。そこにおいては、道徳は無価値で、社会の間違った理想としてしか見られていない。フリードリヒ・ニーチェはニヒリズムを世界、とりわけ人間の意味、存在、目的、可知的真理そして本質的価値を空にすることだと特徴付けた。簡潔には、ニヒリズムは「最も高い価値の無価値化」の過程である。ゆえにニヒリズムでは「人生の意義」なるものは存在しない、となる。また、マルティン・ハイデガーは、ニヒリズムは「存在」が忘れ去られ、価値へと変容する活動であり、換言すれば、価値を交換する存在の減少であるとしている。
フランスの作家アルベール・カミュは人間の状態の不条理とは人々が外的世界に存在しない価値と意味を探すことであると主張している。カミュは『異邦人』の主人公であるムルソーとして価値のニヒリストを書いているが、しかしまたニヒリスティックな世界における価値について、人々はむしろ「英雄的ニヒリスト」になる努力をすべきで、不条理との対面において尊厳を持って生きながら、「世俗の聖人」、友愛のある団結でもって生き、そして超越的な世界の無関心に反抗するべきであるとする。

実存主義 

実存主義においては、それぞれの男と女は彼と彼女の人生の本質(意味)を創造する、とされる。そして、人生は超自然的な神ないし地上の権威によって決定されておらず、我々は自由である。かくして、我々の倫理的で主要な行いは自由、そして自己決定である。このように、実存主義は理性を重要視する合理論や科学的な見方をする実証主義に反対する。人生の意味を知ることに関して、実存主義者は理性のみを用いるのは不十分であるとする。この不十分は不安と恐怖の感情を起こし、自由への直面と同時に起こる死の自覚を我々に感じさせる。実存主義者にとっては、(サルトルが言ったように)実存は本質に先立ち、一人の者の人生の本質は一人の者が存在するようになる前のみに生じている。
セーレン・キルケゴールは「信頼の跳躍」という言葉を作り、人生は不条理で満たされており、我々は無関心な世界において自身の価値を作るべきだとした。我々は有限なものへの無条件の係わり合いにおいて有意味に(絶望と不安から解放されて)生きるのであり、そうするには本来的な傷つきやすさにもかかわらず、係わり合いに有意味な人生に費やすことを主張した。
「人生の意味とは何か?」という問いにおいて我々の生は我々自身の意志を反映しているのであり、意志、生には目的がなく、非合理的で、苦痛を伴う運動であるように決定されているとアルトゥール・ショーペンハウアーは答えた。彼によれば、救い、救済、そして痛みからの逃避を成し遂げるのは美的瞑想、他者からの共感、そして禁欲主義である。
ニーチェにおいては、生は、我々を生きるよう促す目的が存在することのみによって、価値ある生となる。したがって、彼はニヒリズム(「起こること全てに意味がない」)を目的の欠如だという。彼はそれは我々の世界における生を否定し、価値は客観的事実で、合理的に必要であり、普遍的に関わり合いを結びつけるということを否定するものとして、悲観主義を信頼できないものとする。我々の評価は解釈であり、世界に対する反省ではなく、したがって、全ての観念化はそれ自体においては個別のパースペクティブからのものである。

論理実証主義 

論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?これに対してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちは「言語によって表現されるならば、その問いは無意味である」と言う。というのも人生において「xの意味」という言明は、通常xの結果か、xの意味(significance)か、あるいはxにおける顕著なもの等々を示すのであり、したがって、人生の意味の概念が「x」と等しい時、「xの意味」という言明において、その言明は再帰的であり、したがって無意味であるか、もしくはそのことは、生物学的生は人生において意味を持つことが本質的であるという事実を示しているかである、とする。
人生におけるあるもの(人、出来事)は全体の中の部分として意味(significance)を持つことができるが、生における分離し独立した意味それ自身はそれらのものから遊離しており、認識されえない、とする。ある人の人生は(彼自身、他人のために)彼の行い、遺産、家族等々から結果する人生の出来事として意味を持つが、意味(significance)あるいは結果の何かしらの印は人生との関係があり、「人生それ自体に意味がある」という言明は言葉上の誤用となるために、人生はそれ自身で意味を持つというのは言語の誤用である、とする。バートランド・ラッセルは、彼は拷問への嫌悪はブロッコリーへの嫌悪に似てはいないことを認めているにもかかわらず、彼はこれを証明する経験的方法には達していない、と書いた。

Thursday, 10 November 2011

ベトナム消費志向調査

携帯電話、バイク、家庭用洗剤に興味が集中
 今回は、「携帯電話」「飲料」「ヘアケア製品」「バイク」「自動車」「化粧品」「家庭用洗剤」の7分野で質問を設定、回答者の興味は、「携帯電話」「バイク」「家庭用洗剤」に集中することがわかった。これら分野で常に新製品をチェックすると答えた人が、「携帯電話」77%、「バイク」76%、「家庭用洗剤」77%だった。



広告の受容
「ヘアケア製品」に対する関心は高い(76%)が、広告からの影響を受ける割合は低い(65%)。「自動車」「化粧品」「飲料」に関しては、関心があると答えた人はほぼ半数、広告から受ける影響についても同様である。
ベトナム独特の生活スタイルが背景
現在のベトナムでは日常生活に密接に関わる上記3分野に関心が集中し、広告への注目度も高い。一方で、「自動車」「化粧品」という高級品と、日常的に接する「飲料」については、さほど広告から情報を収集しない。前者は高級品であるがゆえ一部消費者の興味に限られている点、後者は、手軽かつ頻繁に飲まれているコーヒーがカフェなど店舗で供されるものであること、また冷蔵庫の普及が進んでいないことが原因として考えられる。

TVCMは情報源として絶大な注目度
全分野で、新製品の情報源として「TVCM」が最多回答を占めた。
男女合計で回答の割合は以下の通り。
「携帯電話」55.7%、「飲料」68.3%、「ヘアケア製品」57.2%、「バイク」51.7%、「自動車」54.8%、「化粧品」63.9%、「家庭用洗剤」67.2%)。
第2位は分野によって異なる。「新聞広告」が「携帯電話」(37.2%)と「自動車」(31.6%)の高級品で注目されている。
「(商品を)見て」という回答は、「飲料」(31.7%)、「バイク」(39.9%)、「家庭用洗剤」(38.6%)など生活必需品といえる分野、また、「友人・知人」が「ヘアケア製品」(35.7%)、「化粧品」(30.2%)と流行に左右される分野で高かった。
インターネット利用は一部男性のみ
インターネットからの情報収集は非常に少ない。「携帯電話」で男性1.7%、女性0%、「バイク」で男女ともに1.7%、「自動車」で男性6.0%、女性3.4%だった。男女比を考慮すると、男性に限ってはインターネットで情報収集を行う人の割合が若干高い。
特に高級品で所有者も少ない「自動車」に関してはインターネットを情報源と考える男性は8回答中4番目に多かった。
サンプル配布などキャンペーンは女性に効果大「サンプル配布などキャンペーン」で新製品の存在を知るという人は、「ヘアケア製品」で男性5.4%、女性17.9%、「化粧品」で男性0.8%、女性16.8%、「家庭用洗剤」男性5.1%、女性20.2%で、圧倒的に女性に多く見られた。
女性に限って見ると、上記の3分野で「キャンペーン」で新製品の存在を知るという回答は、それぞれ3番目に多かった。


強固な口コミ、村社会的背景も
隣国中国も「口コミ」の国と評されることがあるが、ベトナムの場合、広告が現在のように大々的に行われるようになってまだ日が浅い。広告が信用できるメディアになりつつある一方で、根強い「口コミ」依存はあるようだ。
商品を購入する際の決め手の情報として挙げられたのは、全分野とも、「友人・知人の評判」「家族・友人の意見」など身近な人物からの口コミであった(男女合計で、「携帯電話」65.3%、「飲料」62.2%、「ヘアケア製品」71.8%、「バイク」66.4%、「自動車」69.6%、「化粧品」67.8%、「家庭用洗剤」66.6%)。
友人を尊重し、また大家族が互いを支えあい、濃密な関係を構築するベトナムらしい結果といえよう。


ムード優先の消費
テト期には、食品・飲料各社がテト・ムードを盛り上げる商品を発売する。これらに関し、男性の94%が、今年度テト期における特別パッケージ飲料を購入していた。
外見で購入を決定
2006年テト期間直前およびテト期間中において、特に「飲料」の分野で特別パッケージ商品が数多く販売、広告展開された。実際に、これらの商品に注目し、購入者は全体の67%に上った。キャンペーン商品は、価格の大きな引き下げがあるわけではなく、単純にパッケージにテトをイメージさせるデザインを採用したにとどまる場合が多い。だが結果からは、祭事に利用した広告・プロモーションの秘める可能性が感じられる。

性の消費に拍車も
さらに興味深いことに、購入割合は男女別で大きく異なった。家計を任される女性では、実際にこうした商品を購入した人は57%にとどまり、一方男性では94%が商品を購入したと答えた。現在のベトナムにおいて、テト期やクリスマスなどのイベント時、贈り物として男性が商品を購入する文化が根付いていることが一因と考えられる。


自動車は高値の花か
回答者の44%が自動車購入を検討中で、調査対象の平均月収平均月収約60~120ドルからすると、かなり高い割合で購入希望者がいることが明らかになった。
鍵は価格下落
56%が購入を考えていないと答えている。この点は、自動車が高級品であることを示す。一方で上記平均的月収にもかかわらず、車をすでに所有している、あるいは5年以内に購入予定と答えた人は全体の26%、価格下落後に購入を考えると答えた人を含めると44%に上った。




Friday, 4 November 2011

働くこと。生きること。

モノ余りの社会の中で引き算で技を磨く話。

無駄なものを切る。余分な枝葉を切る。その美しい木を引き出すのが職人。
「愛は飾らない」のコンセプト。シンプルさの中に情報感度の高さを見せる無印良品。
カロリーオフ。砂糖ゼロ。
「私たち演奏家の究極の勝負どころは、強音域より弱音域の表現。チカラがないと豊かで美し色彩は表せない。」
単純な構造ほど感動しやすい。

平均的なものの見方をやめてこそオリジナルな発想が生まれてきます。
人間観察の深さは、広告人の根っこになります。

日常生活以上の発想は生まれない。創造は、既存の要素の新しい組み合わせによってできる。

「創造は、記憶から来ます。人生の経験や、読んで記憶に残ったものが手掛かりになり、無から創造が来るのはあり得ない。」 明黒澤

幻滅あるからこそ、夢あるからこそ、人生は有意義なものである。
コーヒーは、苦味の中にある甘味。
タバコは、最初の不快さに次いで来る快適さ。後天的な嗜好だ。

私は、今までの人生は、だれの役に立つもたたない。深い知識や能力があるわけない。ただ自分のやりたいことを追いかけっ放しな人間だ。自分のなりたい人を想像しながら日々を生きてゆくのだ。困難あるからこそ、つらいと感じることあるからこそ、未知の世界を見るまだ味わっていない楽しさや美しさ、そして贅沢や快適さを考えると、何となく頑張れる気がする。明日の私の絵を頭の中で描けるからこそ、生きているのだ。

生きることは、「生きる意味」なんて表せないほど、掛け替えのない唯一のものである。

そして働くことは、自分探しではなく、自分作りだ。自分のなりたいままにまっすぐ向いていけばいいんだ。

私には、何一つもない。情熱だけある。芸術は長く、人生は短く。たまには漂流も大切だ。自分の感覚を研ぎ澄まして直感で行動すればいい。楽しみながら。





Monday, 17 October 2011

夜世紀

21世紀は、生活が地球の自転周期の束縛から、初めて解放される世紀である。そして、それは、「夜」を主役に変える。

20世紀(近代工業化社会) 同期性社会
21世紀(脱・近代工業化社会) 非同期性社会 (人々は、地球の自転周期を離れ、自分の周波数で生きるスタイルを選ぶようになる)

昼+夜=1日ではなく、昼x夜=1日である。

21世紀の夜は、昼の補完物ではない。

1.夜噺:小出し会話、カエルメール、茶の間情報交換所

2.夜店:一村一店(コンビニという商店街の代わりに一店街の普及)、五目作ショップ(いろいろな業態が入り交る24時間営業ショップ・客の入り具合を見ながら作不面積を手早く変更できる機能と、それを読む店長のカンが必須)、タイムシェアリング・ショップ(空き店舗スペースを時間単位で貸すビジネス)

3.夜会:亥の刻文化(午後10時から)、明星デート、時差スタンダード(通信技術により世界各地にいながら同時会議)

4.夜行:POSトレイン、オフィス深夜特急、夜配便

5.夜勤:二部机、外食主婦、ウシミツ・カンパニー

6.夜学:3S教室、開講時間入札制、自動教育

7.夜食:パワーサパー、ディブレック、新夜鳴き

8.夜景:100万ドルの暗闇、東日本標準時、ブランド・ナイト

9.夜遊:24時間ホテル、夜園地、出家

10.夜陰:AIT,日の出亡国論、バーチャル・ナイト・ショップ


10の夜の力は、昼の力をブースとする。

『夜世紀 生活予報2000』


Thursday, 13 October 2011

海外志向の強い現代のベトナム


海外志向の強い現代のベトナム

「周りの友達がみんな留学しているから僕を留学させて」と両親にわがままに言い続ける高校生。実は私の父親のほうにはある知り合いの話だ。高校でまったく勉強せずにゲームとか友達と遊んでいるばかりな子なのに、こういうせりふが最近聞こえてる。ベトナムでずっといるとこのままゲーム熱中ばかりだから、オーストラリアなどに生かせてもらうと僕も性格が変わる、ちゃんと勉強してみせる、と断言した一人っ子。

ある意味でその言い訳が本当のあの息子さんの本音を隠してるだけ。みんな留学してるから、集団空気の影響を受けて、自分もそうしないと劣等感を感じる。

実際は親がこういう提案に抵抗してはない。ベトナムの大学に行くと1年生には政治や共産主義の方針などMarx – Leninのことばかりに洗脳され、ただ時間の無駄だと。

経済余裕のある家庭では別に問題ではないが、中流やあまり稼いでない親の家庭となると、大きな悩みである。一生懸命働いて子供を留学させてやる父親なのに、子供は留学して勉強せず、ただ親のお金を浪費してるばかり。

しかし、これはあくまでもある部分の社会実態であり、全体的に言うと勤勉のベトナム人の若者が多い。逆に、お金持ちや大手企業の社長・取締役である両親がいる若者は、両親のお金に一切依存せずに独立に奨学金を探し、実力のある上にはHarvard Oxfordなど立派な大学で留学することも良く見られる。

老後海外に移住するという中年の親が増えている

子供が今アメリカで働いて結婚して生活してるから、退年になると自分もアメリカに行って家を買う、移住する。これは多くの親たちの口から聞こえるせりふ。

海外志向が強い、留学している自分の子供に「卒業した後でもそこで就職するかほかの国の大学院に進むか、いずれにせよベトナムに帰らないでほしい」という親たちが増えている。

考えうるひとつの原因は、現在の堕落した制度の実態。共産主義の考えがまだ強く、不公平・不透明、ややこしい手続き、汚い空気、不十分の治療サービスなど。沿いゥ考えでなるべくベトナムから脱退していい、という人が多い。(実際に自分の両親もそういっている)
昔の戦争によって難民が多いだけに、現在海外駐在のベトナム人がたくさんいる。主にフランス、アメリカ、オーストラリアや旧そう連国々。

Saturday, 8 October 2011

「静かで平和で孤独な日曜日」ドメスチカル化、カウントリーギャル

村上春樹の「ノルウェイの森」一回読んだことある。
主人公がろくでもない人生を送って、毎日ごく普通な生活をしてる人物。そしてこういうせりふがあった。

「そんな風にミドリの父親のことを考えているとだんだんやるせない気持ちになってきたので、僕は早めに屋上の洗濯物を取り込んで新宿に出て町を歩いて時間をつぶすことにした。混雑した日曜日の町は僕をほっとさせてくれた。(略)そしてこの先こんな日曜日をいったい何十回、何百回繰り返すことになるのだろうとふと思った。「静かで平和で孤独何曜日」と僕は口に出していってみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。」

こういうような日曜日を、皆さん同じように過ごして感じたことがありますか。

私はけっこうある。平日ひたすら学校で時間を過ごして、土曜日の朝も通学する私は、1週間休みの時間はただ日曜日なのだ。とはいっても、日曜日には、友達に誘われないよっぽどのことがない限り、いつも自分の部屋でひっそりと過ごしてるのだ。楽しみといえば、本屋さんに通ってうろうろ本を探し、(主に小説)、あるいはどっか離れた場所に行って一人で喫茶店に入り、タバコを吸いながらあったかいコーヒーを飲み、買った本を読むのだ。時折何かぴんとくることがあったらメモし、文章を読むうちにいい表現を見つけたらノートに書いて(紙がなければ携帯で保存する)、あとで自分の文章で工夫し使う癖がある。そういう生活を他人に語ると、「まだ若いからもっと洋服などショッピングしたほうがいいんじゃない?若者は最近消費しなくなるよな」って非難されることがある。

ある本で読んだことだが、テクノロジーの進化によって商品の機能的価値には大差がなくなり、商品の記号的価値、つまりソフトの部分の違いにメーカーと消費者の関心が向けられるようになった。(寺田信之助1996「よく分かる広告業界」) そして、「軽チャー」「軽薄短小」など、軽いものや面白いものを尊重する文化。。。これを呼んで、「ああ確かにな」と思った。しかし、軽いもの、面白いものといっても、現代ある部分の若者がそういったものさえに対して関心を持たなくなっているじゃないか、というような疑問を抱いてる。

大学3年のとき、私はフェイスブックを通じてある日本人の男のことを知った。彼が一方的に私に友達リクエストを送って、友達になった。というのは、実際に話したことがなかったのに、ただキャンパスで見たりして興味を持つようになる、共通の友達を通じて私のフェイスブックを見つけた。
知り合いになったのは春休みの間で、私は当時ベトナムにいた。けど、毎日彼とメッセージしたり、チャットしたりして、なんだか仲良くなった。

日本に戻ったとき彼と初デート。今回はリアルで、正真正銘のデートだった。
彼のことをネット上で知っただけで、実際にあったのと印象がほとんど変わらない。ちょっと偏屈な人で、人ごみが嫌い、一人でいるのが好きだけど孤独が好きじゃない。と彼も自分でそういった。ああなるほど、じゃあ一緒だ!と私もつぶやいた。

彼にはいくつかの親しい友達がいて、彼らも同じようにひっそり生活が好き。タバコを吸ってユーチューブで60年代の音楽を聴いて。ギターを弾く。バイクで別府から実家の神戸まで帰る(まじっすかと思う人にかかわらず)。ツタヤでレンタルビデオの古い映画やメキシコやフランスの映画を借りてみる。彼のおかげで、私も人生初ウィードを体験するようになった。まあどっちかというとタバコに近い、タバコより香りが良い、だんだん吸っていたら体がだるくなる。とウィーどの素人の私の感想。

「愛してるよ」「そばにいるよ」なんてジェーポップに対して抵抗感を覚えると彼が行った。つまり現代はやっている若者の文化に対する不信が強い。

こういうサブカルチャーはおもしろいなあ、と私も肌で感じた。なぜなら、自分も同じもんだ。

こういうサブカルチャー(軽チャーじゃなくて)について、何とかしたくなるカウントリーギャル気分。絶対何か共通点がある。一人旅パックとか。でもそれはアホ。こういうサブカルチャーの人たちは、絶対集団的なものが嫌い。

実は今、「自立と孤独の心理学」という本を試みる中。ブックオフでぱっと目にしてぴんとくるもんだから購入した。
結論をたどるときまでに、じゃ。

電通の鬼十則


  1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
  2. 仕事とは、先手々と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
  3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
  4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
  5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
  6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
  7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
  8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらない。
  9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
  10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

「劇内定塾」という就活2013版の中にこう見つけた。偉人の言葉でおそらく多くの人が知っているが、私は人生初こういう本を読むまでに知らなかった。
そして活字のところは非常にぴんと来た。
1と2は大体同じことを言ってる。それはすでに自分の中で感じたもの。「俺は空を見上げて果物が落ちてくるの待ってるわけないぜ」みたいなせりふ。

8番は、的中だ。あまり自信が持てない私にとって、こう呼んで魂の奥の隅まで響く言葉。そして何か苦味を禁じえない。

もっと自信を持って行動するようになりたい。プレゼンテーションの直前に感じる緊張感。神経質な状態に陥る。これ誰でもあることだが、緊張感を表面さえ出なければ成功したも同然だ。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」というように。