Saturday 8 October 2011

「静かで平和で孤独な日曜日」ドメスチカル化、カウントリーギャル

村上春樹の「ノルウェイの森」一回読んだことある。
主人公がろくでもない人生を送って、毎日ごく普通な生活をしてる人物。そしてこういうせりふがあった。

「そんな風にミドリの父親のことを考えているとだんだんやるせない気持ちになってきたので、僕は早めに屋上の洗濯物を取り込んで新宿に出て町を歩いて時間をつぶすことにした。混雑した日曜日の町は僕をほっとさせてくれた。(略)そしてこの先こんな日曜日をいったい何十回、何百回繰り返すことになるのだろうとふと思った。「静かで平和で孤独何曜日」と僕は口に出していってみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。」

こういうような日曜日を、皆さん同じように過ごして感じたことがありますか。

私はけっこうある。平日ひたすら学校で時間を過ごして、土曜日の朝も通学する私は、1週間休みの時間はただ日曜日なのだ。とはいっても、日曜日には、友達に誘われないよっぽどのことがない限り、いつも自分の部屋でひっそりと過ごしてるのだ。楽しみといえば、本屋さんに通ってうろうろ本を探し、(主に小説)、あるいはどっか離れた場所に行って一人で喫茶店に入り、タバコを吸いながらあったかいコーヒーを飲み、買った本を読むのだ。時折何かぴんとくることがあったらメモし、文章を読むうちにいい表現を見つけたらノートに書いて(紙がなければ携帯で保存する)、あとで自分の文章で工夫し使う癖がある。そういう生活を他人に語ると、「まだ若いからもっと洋服などショッピングしたほうがいいんじゃない?若者は最近消費しなくなるよな」って非難されることがある。

ある本で読んだことだが、テクノロジーの進化によって商品の機能的価値には大差がなくなり、商品の記号的価値、つまりソフトの部分の違いにメーカーと消費者の関心が向けられるようになった。(寺田信之助1996「よく分かる広告業界」) そして、「軽チャー」「軽薄短小」など、軽いものや面白いものを尊重する文化。。。これを呼んで、「ああ確かにな」と思った。しかし、軽いもの、面白いものといっても、現代ある部分の若者がそういったものさえに対して関心を持たなくなっているじゃないか、というような疑問を抱いてる。

大学3年のとき、私はフェイスブックを通じてある日本人の男のことを知った。彼が一方的に私に友達リクエストを送って、友達になった。というのは、実際に話したことがなかったのに、ただキャンパスで見たりして興味を持つようになる、共通の友達を通じて私のフェイスブックを見つけた。
知り合いになったのは春休みの間で、私は当時ベトナムにいた。けど、毎日彼とメッセージしたり、チャットしたりして、なんだか仲良くなった。

日本に戻ったとき彼と初デート。今回はリアルで、正真正銘のデートだった。
彼のことをネット上で知っただけで、実際にあったのと印象がほとんど変わらない。ちょっと偏屈な人で、人ごみが嫌い、一人でいるのが好きだけど孤独が好きじゃない。と彼も自分でそういった。ああなるほど、じゃあ一緒だ!と私もつぶやいた。

彼にはいくつかの親しい友達がいて、彼らも同じようにひっそり生活が好き。タバコを吸ってユーチューブで60年代の音楽を聴いて。ギターを弾く。バイクで別府から実家の神戸まで帰る(まじっすかと思う人にかかわらず)。ツタヤでレンタルビデオの古い映画やメキシコやフランスの映画を借りてみる。彼のおかげで、私も人生初ウィードを体験するようになった。まあどっちかというとタバコに近い、タバコより香りが良い、だんだん吸っていたら体がだるくなる。とウィーどの素人の私の感想。

「愛してるよ」「そばにいるよ」なんてジェーポップに対して抵抗感を覚えると彼が行った。つまり現代はやっている若者の文化に対する不信が強い。

こういうサブカルチャーはおもしろいなあ、と私も肌で感じた。なぜなら、自分も同じもんだ。

こういうサブカルチャー(軽チャーじゃなくて)について、何とかしたくなるカウントリーギャル気分。絶対何か共通点がある。一人旅パックとか。でもそれはアホ。こういうサブカルチャーの人たちは、絶対集団的なものが嫌い。

実は今、「自立と孤独の心理学」という本を試みる中。ブックオフでぱっと目にしてぴんとくるもんだから購入した。
結論をたどるときまでに、じゃ。

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