Wednesday 29 February 2012

人生の意義


この問いは、経済的に豊かな国でほど切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う[2]
人生において、このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。思春期、中年期および老年期である。思春期を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「中年期の危機Mid-life crisis)」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。 傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる。 神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である。
この問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしないとマックス・ウェーバーはしている。
この問いに対する回答は宗教哲学の中に見出すことができる。あるいはそれらを表現した文学や音楽などの芸術作品の内にも見出すことができる。


功利主義 

功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされており、彼は快と不快という二つの支配者の下にあることが人間の自然であると主張し、そして道徳的洞察から功利性の支配(Rule of Utility)という説を展開し、「善は何であれ最大多数の最大幸福である」とした。彼は生きる意味を「最大幸福の原理」として定義した。なお、ジェレミー・ベンサムの第一の支持者は彼の時代の著名な哲学者であるジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルである。ジョン・ステュアート・ミルは父の仕事の多くからの転写と要約を含むベンサムの原理によって教育された。

プラグマティズム 

プラグマティズム19世紀後半のアメリカで形成され、それ自体で(ほとんど)真理に関係して与件を供する環境との奮闘だけを仮定し、そして意味を持つ理論を派生させ、そしてその結果、功利と実用性もまた真理の要素でもあるとしている。さらに、プラグマティズムは役に立ち実用的なものだからといって何であれ常に真理であるというわけではないと主張しており、人間の善に最も貢献するものが長らく真である、としている。「実践において、理論的主張は実践的に検証可能であるべきであり、即ちあるものは予測およびテストが可能な主張であるべきであり、そしてつまるところ、人類の要求が人間の知的探求を指導すべき」と主張した。
プラグマティズムの哲学者は、実践的で有用な人生の理解は人生についての非実用的で抽象的な真理より重要である、と主張する。

ニヒリズム 

ニヒリズムは知識と真理の主張のあらゆる権威を否定し、価値は実在しないとし、それにおいては価値は主観的であるというよりも、むしろ無根拠である、とする思想である。そこにおいては、道徳は無価値で、社会の間違った理想としてしか見られていない。フリードリヒ・ニーチェはニヒリズムを世界、とりわけ人間の意味、存在、目的、可知的真理そして本質的価値を空にすることだと特徴付けた。簡潔には、ニヒリズムは「最も高い価値の無価値化」の過程である。ゆえにニヒリズムでは「人生の意義」なるものは存在しない、となる。また、マルティン・ハイデガーは、ニヒリズムは「存在」が忘れ去られ、価値へと変容する活動であり、換言すれば、価値を交換する存在の減少であるとしている。
フランスの作家アルベール・カミュは人間の状態の不条理とは人々が外的世界に存在しない価値と意味を探すことであると主張している。カミュは『異邦人』の主人公であるムルソーとして価値のニヒリストを書いているが、しかしまたニヒリスティックな世界における価値について、人々はむしろ「英雄的ニヒリスト」になる努力をすべきで、不条理との対面において尊厳を持って生きながら、「世俗の聖人」、友愛のある団結でもって生き、そして超越的な世界の無関心に反抗するべきであるとする。

実存主義 

実存主義においては、それぞれの男と女は彼と彼女の人生の本質(意味)を創造する、とされる。そして、人生は超自然的な神ないし地上の権威によって決定されておらず、我々は自由である。かくして、我々の倫理的で主要な行いは自由、そして自己決定である。このように、実存主義は理性を重要視する合理論や科学的な見方をする実証主義に反対する。人生の意味を知ることに関して、実存主義者は理性のみを用いるのは不十分であるとする。この不十分は不安と恐怖の感情を起こし、自由への直面と同時に起こる死の自覚を我々に感じさせる。実存主義者にとっては、(サルトルが言ったように)実存は本質に先立ち、一人の者の人生の本質は一人の者が存在するようになる前のみに生じている。
セーレン・キルケゴールは「信頼の跳躍」という言葉を作り、人生は不条理で満たされており、我々は無関心な世界において自身の価値を作るべきだとした。我々は有限なものへの無条件の係わり合いにおいて有意味に(絶望と不安から解放されて)生きるのであり、そうするには本来的な傷つきやすさにもかかわらず、係わり合いに有意味な人生に費やすことを主張した。
「人生の意味とは何か?」という問いにおいて我々の生は我々自身の意志を反映しているのであり、意志、生には目的がなく、非合理的で、苦痛を伴う運動であるように決定されているとアルトゥール・ショーペンハウアーは答えた。彼によれば、救い、救済、そして痛みからの逃避を成し遂げるのは美的瞑想、他者からの共感、そして禁欲主義である。
ニーチェにおいては、生は、我々を生きるよう促す目的が存在することのみによって、価値ある生となる。したがって、彼はニヒリズム(「起こること全てに意味がない」)を目的の欠如だという。彼はそれは我々の世界における生を否定し、価値は客観的事実で、合理的に必要であり、普遍的に関わり合いを結びつけるということを否定するものとして、悲観主義を信頼できないものとする。我々の評価は解釈であり、世界に対する反省ではなく、したがって、全ての観念化はそれ自体においては個別のパースペクティブからのものである。

論理実証主義 

論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?これに対してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちは「言語によって表現されるならば、その問いは無意味である」と言う。というのも人生において「xの意味」という言明は、通常xの結果か、xの意味(significance)か、あるいはxにおける顕著なもの等々を示すのであり、したがって、人生の意味の概念が「x」と等しい時、「xの意味」という言明において、その言明は再帰的であり、したがって無意味であるか、もしくはそのことは、生物学的生は人生において意味を持つことが本質的であるという事実を示しているかである、とする。
人生におけるあるもの(人、出来事)は全体の中の部分として意味(significance)を持つことができるが、生における分離し独立した意味それ自身はそれらのものから遊離しており、認識されえない、とする。ある人の人生は(彼自身、他人のために)彼の行い、遺産、家族等々から結果する人生の出来事として意味を持つが、意味(significance)あるいは結果の何かしらの印は人生との関係があり、「人生それ自体に意味がある」という言明は言葉上の誤用となるために、人生はそれ自身で意味を持つというのは言語の誤用である、とする。バートランド・ラッセルは、彼は拷問への嫌悪はブロッコリーへの嫌悪に似てはいないことを認めているにもかかわらず、彼はこれを証明する経験的方法には達していない、と書いた。

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