Tuesday, 26 June 2012

Violent Passion Surrogate

23 45 & Fivesta family's Ya budu is one of them.

Here I am sitting on the edge of my youth, of when all the roses should be at their blooming peak, when they are the redest; when all the birds are together singing their summer morning orchestra; when all colors in the world fade and zoom and blend and mingle into multi-layered multi-colored kaleidoscopic canvas pictures.

But the truth is, here I am sitting in front of the PC, my eyes fixed on the screen, and I'm increasingly lured into that pseudo experience of adventures, of love, of hatred, emotions, of the world changing and moving around me.

But since nothing has any value from the beginning, even change has no meaning at all.
So time is passing, but in a circle: and we are but marathon athletes running around and around in that circle, with no starting point as well as finishing line.

And so what we have to do, and must do, is to find meanings to them.
The marathon race we are all running.

And I need some Violent Passion now. With a glance of the eyes to a stranger in a public place, I smile wittily, knowingly. Then he looks at me, and during that single nano-second moment, something is born. That distance between us contracts into a breath: he suddenly stands in front of my eyes, his hair gently flutters in the wind, his eyes hungrily investigating my every singly cell and corner, and he whispers: "Kiss me, hug me"

And suddenly the world turns into a giant symphony orchestra....
Roses are red. So is my blood, and his, too.

His hair has a very gentle scent. I sniff it. Like i would the fresh pages of a new book, or something mysterious I happen to find in my drawer.

The time has come. I've to go now.


Sunday, 10 June 2012

movies


I love those political revolutionary movies, as they offer me a kind of escape from my everydayism, channeling my unused mental energy into a form of pseudo unknown-of experience, my craving for liberation, anything that can act as an alternative to the hollowness felt inside me. Sometimes while I watch the scenes going on before my eyes, a vague feeling of frustration silently crawled up inside me; a devastating realization of my powerlessness in doing anything other than indulging in theoretical masturbation and banal self-pondering. I wish I was born in those days, when revolution was running everywhere in the world, in Europe, in America. People with hot hearts and burning passion to fight for a cause. Am I the only one who listens to “La Rage” and feels turned on?

“Dope chokes up young people’s revolutionary energy” (The Edukators)

Is it dope or is it the very process of development that halts my mental energy?
Maybe, maybe not. Maybe both.

Walking the rue d’Assas, dropping by a patisserie for a hot French toast, stopping at a sidewalf café for a hot morning mocha. Smoking, reading the morning papers, chatting with friends, bathing in summer sun light.

Other than that, on weekends I spend my days like a lazy cat cuddling up in its warm, furry blanket on a cold winter day. Weekends locked in my home, having a movie watching run, thinking. 

Real slow life. Beer everyday in a run. Scenes dancing before my eyes, people’s lives, tears, happiness, revolution, guns, bloodshed, everything that exists. Now I feel the very core of what is called “mobile privatization” learned in my media studies class. People rooted in one place watching thousands and millions of lives happening around the globe. The sky’s the limit. No time or space oppression. 

writing


Writing is a way to detoxify myself. Here as I am sitting on the wooden floor of my room, looking at the laptop clock showing 12:11 AM, splurting out shit, I see my existence at the very core of it. Suddenly felt stomach-empty a while ago, I tried to struggle with the instinct to pull out all the evils hidden in my kitchen cupboard, by making some corn soup to calm myself down, and store up some energy in order to write this.

Let’s put it this way: I am, after all, a human being. By a human being, I mean a single one, not two, not together, totally detached from the social definition of our human race (the same as in gender vs sex). Even when I talk to friends/my family, exchange flirting sms with my boyfriend, go to class, go to convenience store to grab some coffee and cigarettes, I am eventually by myself. That means, the way the world revolves and things happen take place inside my head, and mine alone, not shared or determined or controlled by any means by any other external factors. I have a whole world with its own stories and melodies inside my head. And here, at this very moment as I mentioned above, I see my existence as a lonely, socially detached, single form of living creature that happens to be awake at 12:19 am, sitting straight up on my wooden floor, splitting out shit and eating corn soup.

My life is an everyday fight with the virus that has not only taken its evil root inside me but has spread and permeated every single cell of my body. Yet, the even more scrary fact is that it has eaten into my nerves, my brain, controlling every single movement of me, driving me crazy until my mind screams and I finally burst out in a chaotic mess, ending up with the obnoxious muddy stinky pool of my own bodily puking.

Please, do not read this if you are eating. Alert to those biologically fragile to human feces stories during meal time or hypocrites trying to appear sophisticated or ladylike or whatever terms you call it.

 The idea of social accompany gives me a nausea. That does not mean I am anti-social, or hate human, or look down on them. I do hang out with people; indeed I can never forget the time spent with the crazy kids from my high school time. I do enjoy the social and emotional aid that hanging out offers: it releases pain, it strengthens my beliefs, it enforces my own egoistic thoughts. Yet, I do not believe in the technical meaning of social accompany. Decisions are after all made by you and yourself alone.  

Friday, 2 March 2012

心理学

加藤諦三 「自立と孤独の心理学」

人に愛着する心のそこには母への愛着がある。
一人でいることを楽しめない人は無意識の中に愛着がある。
個別化は容易だが分離が難しい。

相手を所有したいという気持ちには依存心が潜んでいる。
心の支えがないから、他人の評価を求める。
幼い日の喪失体験が失うことを恐れさせる。
所有欲、独占欲の深いところに愛情喪失体験がある。
幼児的一体感をもてなかったから、いろいろなものに執着する。

ベトナムで生まれ育ち、日本で学び、世界90カ国の人たちが集まって学びだけでなく、生活も共有した大学の環境で培われた多様性への理解を持ってる自分は、国籍・バックグラウンド・価値観などといったいろいろな隔たりがある中でも、普遍的な心理があると思う。

例えば、私は大学3年生から、グローバルビジネスリーダー育成プログラムという日本企業での就職への意志がある国際学生を対象とした国際派リーダー育成奨学生に当確し、参加してきました。
そこで一緒に入る同級生の7人は、中国、フィリッピン、韓国、インドネシア、スリランカなどほとんどアジア出身の学生たちと、週に6回プログラム独自の授業を受けたり、週末に焼肉・飲み会などのプライベートでも深く付き合うことができた。そのうちに感じたのは、同じアジアけんでも異論ライフスタイル・価値観が存在すること。

例えば同じ中国出身の二人の女の子たちは、負けず嫌いで甘え系の人と、自信が持てない消極的な人だった。

フィリッピン人は自信過剰とラテン系。優秀だけど、それほど優秀でなく不細工な人を見下ろす傾向。気が強く、しゃべり好き 批判系

インドネシア人は心優しい。バイキングが終わったとき自由に食べ物を持ち帰り可能だったけど、精一杯ビニール袋にものを入れ込んだ韓国人に対して、袋半分だけにした。どうしてって聞いたら、「あのー、ほかの子もいるから~」って返ってきた。宗教心が強く、性善説。

などなど。

そしていろんなバックグランドにもかかわらず、必ず共通点・普遍的な心理がある、と。

例えば一人の中国人の女の子の話を捉えてみる。彼女は小さい頃から両親が離婚して今父親とステップ・マザーと一緒に住んでいるけど、幼いときから家庭の一体感がもてなかったという。そして彼女にはスターバックスカップを集めるのが大好き。海外に行く友達がいればその国のスターバックスカップを買ってもらうように頼む。
マックドナルドやスターバックスが好きな理由を聞くと、どこの国にってもマックやスターバの店を見かけたら、ホームを感じる。いわゆる親近感・親しみのある。グローバルなブランドゆえにたとえ馴染みのない道に迷うときでもスターバをみつけたらほっとできる。

そして彼女のスターバカップを集める趣味から見ると、確かに幼いときからの一体感をもてなかった経験から、いろいろなものに執着する傾向がある。

広くいえば昨今言われている日本の若者の「懐古厨」をみても、過去を懐かしむことから「母への愛着」を象徴するのではないか、と。

人の根本的な心理は、母への愛着、しがみつきというのである。
温もりへの執着。ピッツァのとろけるチーズやら、ほっとココアやら、シチューやら、あらゆる誰でも親しみのある食べ物から考えると、「あったかい、温もり、心地よい」がみえる。
 
極端な例だと、セックスと同じ。アメリカンパイみたいな感じ。




Wednesday, 29 February 2012

人生の意義


この問いは、経済的に豊かな国でほど切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う[2]
人生において、このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。思春期、中年期および老年期である。思春期を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「中年期の危機Mid-life crisis)」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。 傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる。 神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である。
この問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしないとマックス・ウェーバーはしている。
この問いに対する回答は宗教哲学の中に見出すことができる。あるいはそれらを表現した文学や音楽などの芸術作品の内にも見出すことができる。


功利主義 

功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされており、彼は快と不快という二つの支配者の下にあることが人間の自然であると主張し、そして道徳的洞察から功利性の支配(Rule of Utility)という説を展開し、「善は何であれ最大多数の最大幸福である」とした。彼は生きる意味を「最大幸福の原理」として定義した。なお、ジェレミー・ベンサムの第一の支持者は彼の時代の著名な哲学者であるジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルである。ジョン・ステュアート・ミルは父の仕事の多くからの転写と要約を含むベンサムの原理によって教育された。

プラグマティズム 

プラグマティズム19世紀後半のアメリカで形成され、それ自体で(ほとんど)真理に関係して与件を供する環境との奮闘だけを仮定し、そして意味を持つ理論を派生させ、そしてその結果、功利と実用性もまた真理の要素でもあるとしている。さらに、プラグマティズムは役に立ち実用的なものだからといって何であれ常に真理であるというわけではないと主張しており、人間の善に最も貢献するものが長らく真である、としている。「実践において、理論的主張は実践的に検証可能であるべきであり、即ちあるものは予測およびテストが可能な主張であるべきであり、そしてつまるところ、人類の要求が人間の知的探求を指導すべき」と主張した。
プラグマティズムの哲学者は、実践的で有用な人生の理解は人生についての非実用的で抽象的な真理より重要である、と主張する。

ニヒリズム 

ニヒリズムは知識と真理の主張のあらゆる権威を否定し、価値は実在しないとし、それにおいては価値は主観的であるというよりも、むしろ無根拠である、とする思想である。そこにおいては、道徳は無価値で、社会の間違った理想としてしか見られていない。フリードリヒ・ニーチェはニヒリズムを世界、とりわけ人間の意味、存在、目的、可知的真理そして本質的価値を空にすることだと特徴付けた。簡潔には、ニヒリズムは「最も高い価値の無価値化」の過程である。ゆえにニヒリズムでは「人生の意義」なるものは存在しない、となる。また、マルティン・ハイデガーは、ニヒリズムは「存在」が忘れ去られ、価値へと変容する活動であり、換言すれば、価値を交換する存在の減少であるとしている。
フランスの作家アルベール・カミュは人間の状態の不条理とは人々が外的世界に存在しない価値と意味を探すことであると主張している。カミュは『異邦人』の主人公であるムルソーとして価値のニヒリストを書いているが、しかしまたニヒリスティックな世界における価値について、人々はむしろ「英雄的ニヒリスト」になる努力をすべきで、不条理との対面において尊厳を持って生きながら、「世俗の聖人」、友愛のある団結でもって生き、そして超越的な世界の無関心に反抗するべきであるとする。

実存主義 

実存主義においては、それぞれの男と女は彼と彼女の人生の本質(意味)を創造する、とされる。そして、人生は超自然的な神ないし地上の権威によって決定されておらず、我々は自由である。かくして、我々の倫理的で主要な行いは自由、そして自己決定である。このように、実存主義は理性を重要視する合理論や科学的な見方をする実証主義に反対する。人生の意味を知ることに関して、実存主義者は理性のみを用いるのは不十分であるとする。この不十分は不安と恐怖の感情を起こし、自由への直面と同時に起こる死の自覚を我々に感じさせる。実存主義者にとっては、(サルトルが言ったように)実存は本質に先立ち、一人の者の人生の本質は一人の者が存在するようになる前のみに生じている。
セーレン・キルケゴールは「信頼の跳躍」という言葉を作り、人生は不条理で満たされており、我々は無関心な世界において自身の価値を作るべきだとした。我々は有限なものへの無条件の係わり合いにおいて有意味に(絶望と不安から解放されて)生きるのであり、そうするには本来的な傷つきやすさにもかかわらず、係わり合いに有意味な人生に費やすことを主張した。
「人生の意味とは何か?」という問いにおいて我々の生は我々自身の意志を反映しているのであり、意志、生には目的がなく、非合理的で、苦痛を伴う運動であるように決定されているとアルトゥール・ショーペンハウアーは答えた。彼によれば、救い、救済、そして痛みからの逃避を成し遂げるのは美的瞑想、他者からの共感、そして禁欲主義である。
ニーチェにおいては、生は、我々を生きるよう促す目的が存在することのみによって、価値ある生となる。したがって、彼はニヒリズム(「起こること全てに意味がない」)を目的の欠如だという。彼はそれは我々の世界における生を否定し、価値は客観的事実で、合理的に必要であり、普遍的に関わり合いを結びつけるということを否定するものとして、悲観主義を信頼できないものとする。我々の評価は解釈であり、世界に対する反省ではなく、したがって、全ての観念化はそれ自体においては個別のパースペクティブからのものである。

論理実証主義 

論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?これに対してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちは「言語によって表現されるならば、その問いは無意味である」と言う。というのも人生において「xの意味」という言明は、通常xの結果か、xの意味(significance)か、あるいはxにおける顕著なもの等々を示すのであり、したがって、人生の意味の概念が「x」と等しい時、「xの意味」という言明において、その言明は再帰的であり、したがって無意味であるか、もしくはそのことは、生物学的生は人生において意味を持つことが本質的であるという事実を示しているかである、とする。
人生におけるあるもの(人、出来事)は全体の中の部分として意味(significance)を持つことができるが、生における分離し独立した意味それ自身はそれらのものから遊離しており、認識されえない、とする。ある人の人生は(彼自身、他人のために)彼の行い、遺産、家族等々から結果する人生の出来事として意味を持つが、意味(significance)あるいは結果の何かしらの印は人生との関係があり、「人生それ自体に意味がある」という言明は言葉上の誤用となるために、人生はそれ自身で意味を持つというのは言語の誤用である、とする。バートランド・ラッセルは、彼は拷問への嫌悪はブロッコリーへの嫌悪に似てはいないことを認めているにもかかわらず、彼はこれを証明する経験的方法には達していない、と書いた。

Thursday, 10 November 2011

ベトナム消費志向調査

携帯電話、バイク、家庭用洗剤に興味が集中
 今回は、「携帯電話」「飲料」「ヘアケア製品」「バイク」「自動車」「化粧品」「家庭用洗剤」の7分野で質問を設定、回答者の興味は、「携帯電話」「バイク」「家庭用洗剤」に集中することがわかった。これら分野で常に新製品をチェックすると答えた人が、「携帯電話」77%、「バイク」76%、「家庭用洗剤」77%だった。



広告の受容
「ヘアケア製品」に対する関心は高い(76%)が、広告からの影響を受ける割合は低い(65%)。「自動車」「化粧品」「飲料」に関しては、関心があると答えた人はほぼ半数、広告から受ける影響についても同様である。
ベトナム独特の生活スタイルが背景
現在のベトナムでは日常生活に密接に関わる上記3分野に関心が集中し、広告への注目度も高い。一方で、「自動車」「化粧品」という高級品と、日常的に接する「飲料」については、さほど広告から情報を収集しない。前者は高級品であるがゆえ一部消費者の興味に限られている点、後者は、手軽かつ頻繁に飲まれているコーヒーがカフェなど店舗で供されるものであること、また冷蔵庫の普及が進んでいないことが原因として考えられる。

TVCMは情報源として絶大な注目度
全分野で、新製品の情報源として「TVCM」が最多回答を占めた。
男女合計で回答の割合は以下の通り。
「携帯電話」55.7%、「飲料」68.3%、「ヘアケア製品」57.2%、「バイク」51.7%、「自動車」54.8%、「化粧品」63.9%、「家庭用洗剤」67.2%)。
第2位は分野によって異なる。「新聞広告」が「携帯電話」(37.2%)と「自動車」(31.6%)の高級品で注目されている。
「(商品を)見て」という回答は、「飲料」(31.7%)、「バイク」(39.9%)、「家庭用洗剤」(38.6%)など生活必需品といえる分野、また、「友人・知人」が「ヘアケア製品」(35.7%)、「化粧品」(30.2%)と流行に左右される分野で高かった。
インターネット利用は一部男性のみ
インターネットからの情報収集は非常に少ない。「携帯電話」で男性1.7%、女性0%、「バイク」で男女ともに1.7%、「自動車」で男性6.0%、女性3.4%だった。男女比を考慮すると、男性に限ってはインターネットで情報収集を行う人の割合が若干高い。
特に高級品で所有者も少ない「自動車」に関してはインターネットを情報源と考える男性は8回答中4番目に多かった。
サンプル配布などキャンペーンは女性に効果大「サンプル配布などキャンペーン」で新製品の存在を知るという人は、「ヘアケア製品」で男性5.4%、女性17.9%、「化粧品」で男性0.8%、女性16.8%、「家庭用洗剤」男性5.1%、女性20.2%で、圧倒的に女性に多く見られた。
女性に限って見ると、上記の3分野で「キャンペーン」で新製品の存在を知るという回答は、それぞれ3番目に多かった。


強固な口コミ、村社会的背景も
隣国中国も「口コミ」の国と評されることがあるが、ベトナムの場合、広告が現在のように大々的に行われるようになってまだ日が浅い。広告が信用できるメディアになりつつある一方で、根強い「口コミ」依存はあるようだ。
商品を購入する際の決め手の情報として挙げられたのは、全分野とも、「友人・知人の評判」「家族・友人の意見」など身近な人物からの口コミであった(男女合計で、「携帯電話」65.3%、「飲料」62.2%、「ヘアケア製品」71.8%、「バイク」66.4%、「自動車」69.6%、「化粧品」67.8%、「家庭用洗剤」66.6%)。
友人を尊重し、また大家族が互いを支えあい、濃密な関係を構築するベトナムらしい結果といえよう。


ムード優先の消費
テト期には、食品・飲料各社がテト・ムードを盛り上げる商品を発売する。これらに関し、男性の94%が、今年度テト期における特別パッケージ飲料を購入していた。
外見で購入を決定
2006年テト期間直前およびテト期間中において、特に「飲料」の分野で特別パッケージ商品が数多く販売、広告展開された。実際に、これらの商品に注目し、購入者は全体の67%に上った。キャンペーン商品は、価格の大きな引き下げがあるわけではなく、単純にパッケージにテトをイメージさせるデザインを採用したにとどまる場合が多い。だが結果からは、祭事に利用した広告・プロモーションの秘める可能性が感じられる。

性の消費に拍車も
さらに興味深いことに、購入割合は男女別で大きく異なった。家計を任される女性では、実際にこうした商品を購入した人は57%にとどまり、一方男性では94%が商品を購入したと答えた。現在のベトナムにおいて、テト期やクリスマスなどのイベント時、贈り物として男性が商品を購入する文化が根付いていることが一因と考えられる。


自動車は高値の花か
回答者の44%が自動車購入を検討中で、調査対象の平均月収平均月収約60~120ドルからすると、かなり高い割合で購入希望者がいることが明らかになった。
鍵は価格下落
56%が購入を考えていないと答えている。この点は、自動車が高級品であることを示す。一方で上記平均的月収にもかかわらず、車をすでに所有している、あるいは5年以内に購入予定と答えた人は全体の26%、価格下落後に購入を考えると答えた人を含めると44%に上った。




Friday, 4 November 2011

働くこと。生きること。

モノ余りの社会の中で引き算で技を磨く話。

無駄なものを切る。余分な枝葉を切る。その美しい木を引き出すのが職人。
「愛は飾らない」のコンセプト。シンプルさの中に情報感度の高さを見せる無印良品。
カロリーオフ。砂糖ゼロ。
「私たち演奏家の究極の勝負どころは、強音域より弱音域の表現。チカラがないと豊かで美し色彩は表せない。」
単純な構造ほど感動しやすい。

平均的なものの見方をやめてこそオリジナルな発想が生まれてきます。
人間観察の深さは、広告人の根っこになります。

日常生活以上の発想は生まれない。創造は、既存の要素の新しい組み合わせによってできる。

「創造は、記憶から来ます。人生の経験や、読んで記憶に残ったものが手掛かりになり、無から創造が来るのはあり得ない。」 明黒澤

幻滅あるからこそ、夢あるからこそ、人生は有意義なものである。
コーヒーは、苦味の中にある甘味。
タバコは、最初の不快さに次いで来る快適さ。後天的な嗜好だ。

私は、今までの人生は、だれの役に立つもたたない。深い知識や能力があるわけない。ただ自分のやりたいことを追いかけっ放しな人間だ。自分のなりたい人を想像しながら日々を生きてゆくのだ。困難あるからこそ、つらいと感じることあるからこそ、未知の世界を見るまだ味わっていない楽しさや美しさ、そして贅沢や快適さを考えると、何となく頑張れる気がする。明日の私の絵を頭の中で描けるからこそ、生きているのだ。

生きることは、「生きる意味」なんて表せないほど、掛け替えのない唯一のものである。

そして働くことは、自分探しではなく、自分作りだ。自分のなりたいままにまっすぐ向いていけばいいんだ。

私には、何一つもない。情熱だけある。芸術は長く、人生は短く。たまには漂流も大切だ。自分の感覚を研ぎ澄まして直感で行動すればいい。楽しみながら。